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天の王朝

天の王朝

誰がケネディを殺したか

ジョン・F・ケネディ暗殺の動機

特集「誰がケネディを殺したかー暗殺の背後にある政治的動機について」
◎カストロ陰謀説を信じたジョンソン大統領
  暗殺の背後にはやはりCIAがいた
  キューバの反カストロ分子が関与か
  元凶はピッグス湾事件の密約
  戦争回避のため極秘扱いに
  
 1963年11月22日は、米国民にとって忘れようにも忘れることができない日だ。その日の午後12時半ごろ、テキサス州のダラスで、ジョン・F・ケネディ米合衆国大統領が、オープンカーで行進中に、撃たれ暗殺された。直後から始まった捜査で、リー・ハーヴィー・オズワルドが逮捕されたが、2日後にオズワルド自身もマフィアとつながりのあったジャック・ルビーという男に撃たれ、殺された。ケネディの後を継いだリンドン・ジョンソン大統領が設けた特別調査委員会「ウォレン委員会」の報告書は、オズワルドの単独犯行との結論を出した。
 しかし、このウォレン委員会の報告書を、今でも信じている米国人は極めて少ない。しかも、驚くべきことに、委員会を設けたジョンソン大統領本人も3年4ヶ月後に、一人のジャーナリストに対して、報告書はウソであったことを事実上認める発言をしていたのだ。ジョンソンの発言の真意は何か。だれが本当にケネディを殺したのか。何故殺す必要があったのか。ケネディ暗殺から35年以上も経った今、ジョンソン発言の謎を解いていくうちに、米国外交史を根底から覆すような驚愕の真実が浮かび上がってきた。

 「これを聞いたら、君は驚くぞ」
 アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソンは、前任者の故ジョン・F・ケネディの話をしている時に、いきなりこう切り出した。時はケネディ暗殺から3年以上経った1967年の3月31日。当時ABCニュースのアンカーマンをしていたハワード・K・スミス(メモ1参照)が、ホワイトハウス大統領執務室の隣にある小さな個室で、ジョンソンと一対一の「私的な会話」をしていたときのことだ。テレビカメラの持ち込みはおろか、メモもとらないという、いわゆる非公式の懇談の形をとっていた。スミスが、どんな驚く話が出てくるのか椅子から身を乗り出した、ちょうどその時、ジョンソンは、おもむろに口を開いた。
 「ケネディがカストロを殺そうとしたが、カストロが先にケネディをやったのだ」――。
   
 こうした衝撃的な会話が、現職大統領と当時の有力ジャーナリストの間で交わされたことを知る人は極めて少ない。こんなにも重大な大統領の発言が知られていない第一の理由は、この会話が記者会見など公の性質を持たない私的な懇談であったこと。 第二の理由は、カメラの前で同じことを話してくれと頼んだスミスの執拗な要請にもかかわらず、ジョンソン大統領が頑なにテレビでの発言を拒んだこと。そして、第三の理由は、おそらくスミス自身が、ジョンソン大統領の発言の真意をよく理解していなかったことだ。

▽図りかねた発言の真意
 この第三の理由に関連して、スミスは、筆者に対して手紙(メモ2参照)で次のように書いている。
 「・・・私は今でも彼(ジョンソン大統領)の発言をどう解釈すればいいか、分からないでいる。彼は、ケネディ暗殺はオズワルドという精神異常者による単独犯行で、陰謀などは全く存在しない、としたウォレン委員会の結論(メモ3参照)を公に是認しておきながら、今度は私に対して、ケネディ暗殺の背景にキューバの陰謀があったと信じている、と告げたのだ。(中略)私は今でも真意を図りかね、困惑したままだ」
 しかし、スミスは「真意を図りかねて」いたものの、自分の番組の中で、このことに言及することをためらわなかった。ケネディ暗殺の背景にフィデル・カストロが関与している可能性があるとジョンソン大統領が言明した、と視聴者に伝えたのだ。ただ、スミス氏には確信がなかったこともあり、このことは大した注目も浴びずに、それで終わってしまった。

誰がケネディを殺したか2

ジョンソン発言の真相について議論する前に、私がどうやって、このジョンソン大統領とハワード・スミスの「私的な懇談」にたどり着いたのかについて触れておこう。1998年秋のことだ。私はジョンズ・ホプキンズ大学高等国際問題研究大学院(SAIS)を卒業して、ワシントンDCでぶらぶらしていると、朝日新聞のワシントン支局記者から電話がかかってきた。

 内容はたしか、「どうせお前はヒマでぶらぶらしているなら、ちょっと仕事を頼まれてくれないか」というものだった。朝日新聞は当時、20世紀の世界史に出てくる重要人物を掘り下げる企画を日曜版に連載していた。そこで米連邦捜査局(FBI)長官として長年君臨したエドガー・フーバーを取り上げる予定だったが、ちょっと追加取材が必要になった。そこで誰かワシントンDC郊外に住むジャック・アンダーソン(メモ2参照)という、フーバーのことをよく知るコラムニストに追加取材できる人を探していたのだ。私は「どうせヒマだったから」二つ返事でOKした。

 私はすぐに電話でアポを取り、ワシントンDC郊外の緑多い広い敷地にある邸宅で今では多くの孫に囲まれて暮らしているというアンダーソンに会いにいった。約束の時刻より少し早めに邸宅の敷地内についたが、建物がいくつかあり、どの建物にアンダーソンがいるのかよくわからない。五分ぐらい歩き回って探していると、大きな家の前で初老の男性が私を見ているのに気が付いた。私の方から歩み寄って、「ジャック・アンダーソンさんですか」と尋ねると、「そうだ」と言う。いくつもある建物には、自分の子供たちが孫たちと暮しているのだという。私にとっては、迷路のような敷地の中で、あちこち歩いた末にようやく本人にめぐり合えたわけだ。

邸宅の中に入っていくと、大きな暖炉がある応接間に通された。そこで私は取材の趣旨を説明し、エドガー・フーバーに関する取材を始めた。
(続く)

(メモ2=ジャック・アンダーソン)
 特ダネのすっぱ抜きで名を馳せたコラムニスト。1922年生まれ。10代から新聞記者の仕事を始め、第二次世界大戦中、中国を中心とするアジアで従軍記者を務めた。戦後、ジョージタウン大学などで学び、47年からワシントン・メリーゴーラウンド社のコラムニスト。政府内部に太いパイプを持ち、独自の調査報道で次々と特ダネを書いた。69年に同社社主になり、72年にはニクソン政権がインドーパキスタン戦争で極秘にパキスタンを支援していたことをスクープした一連のコラムなどが評価され、国内報道部門でピューリッツァー賞を受賞した。ワシントンDC近郊に住み、9人の子供に孫が36人いる(98年11月現在)。


誰がケネディを殺したか3

ジャック・アンダーソンが語った元FBI長官エドガー・フーバー(メモ3参照)の話はそれなりに面白かった。強大な権力をほしいままにしていたフーバーを、アンダーソンは執拗に追跡、取材した。フーバーの自宅前で密かに張り込んで24時間監視したり、フーバー家が出すゴミの中身を調べたり、あらゆる手段を講じてフーバーを調べ上げた。

アンダーソンによると、フーバーは“権力の濫用者”と呼ばれていたが、意外と私生活は質素でやましいことはほとんどなかったらしい。フーバーのゴミを分析した結果、消化器系の病気をもっていたこともわかった、とアンダーソンは話していた。

およそ40分ぐらいだろうか。依頼されたフーバーの取材はほぼ終わった。そのとき私は、これだけフーバーのことを取材して、なおかつ政府内部に太いパイプをもつアンダーソンならば、ケネディ暗殺の真相についても何か知っているのではないか、と不意に思いついた。断っておくが、私はそのときまでケネディ暗殺事件について、とくに興味をもっていたわけではない。ふと頭に浮かんだので、質問したくなっただけなのだ。

「ところでアンダーソンさん、フーバーがまさに絶頂期にいたとき、ケネディ暗殺事件が起きていますが、何かご存知ではないですか」と私は聞いた。そのとき、聞いた話は衝撃であった。アンダーソンの話は次のようなものだ。

アンダーソンは、ケネディ暗殺直後から、独自の情報網を使って、暗殺の真相に迫っていた。取材の結果、米連邦捜査局(FBI)や米中央情報局(CIA)から得た情報で、マフィアの殺し屋やカストロが関与している可能性があることに気付いたというのだ。
(続く)

(メモ3=エドガー・フーバー)
FBI長官に長年君臨した「権力の濫用者」。ケネディ大統領に引退を勧告されるのではないかと恐れていたフーバーにとって、権力の椅子に座り続けるためにはケネディは邪魔な存在だった。しかし筆者は、フーバーがケネディ暗殺にかかわっていたとは思わない。今後の日記で明らかにするが、フーバーが証拠隠滅工作をしたのは、あくまでもジョンソン大統領の命令によるものだと推察されるからだ。フーバーは忠実にジョンソンの命令に従い、オズワルド単独犯行をでっち上げたと筆者はみている。

興味深いのは、フーバーがFBIの組織力を維持するため、リチャード・ニクソン大統領やCIAと権力抗争を展開していた1972年5月1日に突然、病死したことだ。その二週間後の5月15日にニクソンの政敵、ジョージ・ウォレスが撃たれたことや、同月27日にウォーターゲートの民主党本部への最初の侵入事件があったことを考えると、フーバーの死が“偶然”だったにせよ、いかに大統領再選を目指すニクソン陣営にとって都合がよかったかがうかがえる。

1973年12月12日付けのハーバード大学新聞「ハーバード・クリムゾン」は、CIA筋の話として、ウォーターゲート事件で捕まったゴードン・リディとキューバ人がフーバーの家に忍び込み、燐酸塩系の毒物をフーバーの使用するトイレ用品に塗り込んだ結果、それを使ったフーバーが心臓発作で死んだとする記事を載せている。


誰がケネディを殺したか4

▼密談
 ジャック・アンダーソンによると、ケネディが暗殺された翌日、新しく大統領に就任したリンドン・ジョンソンとジョン・マコーンCIA長官が極秘に緊急会談した。その場でマコーンは、CIAによるマフィアを利用したカストロ暗殺計画(メモ4参照)が失敗したことや、オズワルドが暗殺の2ヶ月前にメキシコシティのキューバ領事館を訪ねていたことをジョンソンに話した。そして米国の暗殺計画に怒ったカストロが、オズワルドか、ケネディの政策に反感を抱き寝返ったマフィアを使ってケネディに報復したように思えると話したというのだ。

 マコーンはさらに「もしこのことを国民が知ったら、国民は激怒し、カストロに制裁を加えろと叫ぶだろう。また、もしカストロに対して報復したら、既に1年前にキューバからのミサイル撤去という政治的屈辱(メモ5参照)を経験しているソ連の二キータ・フルシチョフ第一書記(首相)は、クレムリンで非常に難しい立場に立たされる。つまり、今ここでキューバに軍隊を派遣しようものなら、フルシチョフはもう妥協しないだろう。核のボタンを押すことになるかもしれない。だから大統領。私のアドバイスは、カストロの件は伏せておくことです」とジョンソンに伝えた。

 ジャック・アンダーソンの説明は続いた。この会合の後、ジョンソンはエドガー・フーバーFBI長官を呼び、ケネディ暗殺の捜査に当たっては、カストロは事件に関係ないことを前提に進めるよう命令した。ジョンソンは、これは米ソによる核戦争を防ぐためだと説明、フーバーはこれに従った。このため、FBIは、カストロと暗殺を結びつけるような情報は極力排除、オズワルド単独犯行という結論が出るような捜査結果のみを意図的に委員会に報告した。
(続く)

(メモ4=カストロ暗殺計画)
 現在公表されているCIAによるカストロ暗殺計画は、60年8月まで遡る。CIAのリチャード・ビッセル計画局次長が部下のシェフィールド・エドワーズ安全保障担当部長にマフィアを使ったカストロ暗殺計画を打診したのが始まりだ。ビッセルとエドワーズは、ボツリヌス菌を染み込ませた葉巻をカストロに吸わせることを考案したり、マフィアに対して、カストロ暗殺に成功した者には15万ドルの報償を与えると約束したりしている。61年4月のピッグス湾事件の失敗で、一時は暗殺計画も中断したかに思われたが、その後もCIA側の担当者が替わりながら、マフィアを介在するカストロ暗殺計画は継続。カストロの食事に毒を入れる計画やマフィアの暗殺団をキューバに送り込む計画などが実施されたが、いずれも失敗している。

(メモ5=ミサイル危機)
 いわゆるキューバを舞台にした1962年10月のミサイル危機のこと。キューバ危機ともいう。10月22日、ソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設していることを空中偵察で知ったケネディ大統領は、ソ連に撤去を要求。艦艇183隻、軍用機1190機を動員してキューバを海上封鎖すると同時に、西半球に対するキューバからのミサイル攻撃は、ソ連の米国への攻撃と同じとみなし、ただちに報復攻撃をするという態勢をとったため、緊張が一挙に高まり、一時は米ソ核戦争に突入する可能性のある危険な状態になった。国連緊急安全保障理事会での交渉や非公式の会談を通じて、ケネディはフルシチョフにキューバ不侵攻を約束し、フルシチョフは同月28日、ミサイル撤去を発表、核戦争の危機は回避された。この結果、米国ではケネディの勇敢な決断力が地球の危機を救ったとして、ケネディの株が上がる一方、ソ連では核戦力と海軍力の立ち後れが再確認され、64年10月のフルシチョフ失脚の遠因になったとされている。


誰がケネディを殺したか5

▼確証
 ジャック・アンダーソンは、政府関係者だけでなく、マフィアにも取材を広げて情報収集、カストロによる陰謀説をほぼ確信し、記事に書いた(メモ6参照)。確かに動機面では、カストロ陰謀説やマフィア犯行説を臭わせるような状況は存在した。
 まず、1960年の大統領選で、マフィアはケネディ当選のため暗躍した(メモ7参照)にもかかわらず、ケネディは大統領に就任するとマフィアを厳しく取り締まった。カストロに閉鎖されたキューバのカジノを取り戻せるとマフィアが期待していたピッグス湾事件(メモ8参照)でも、ケネディはCIAが約束していたとみられる空爆などによる反カストロ部隊に対する支援(援護爆撃)を認めなかった。さらに、マフィアはカストロ暗殺計画でCIAに協力しているという“貸し”があるにもかかわらず、ケネディはマフィア糾弾の手を休めなかった。カストロもCIAによる暗殺計画に気付き、報復を考えていた・・・。

しかし、私にはカストロがケネディを暗殺させたというアンダーソンの説をにわかには信じることができなかった。状況証拠は確かにカストロによる陰謀説を支持しているといえなくもない。それでも、なにか決め手となる証拠や裏づけがないと、その仮説が正しいとはいえない。

「アンダーソンさん、非常に面白い仮説ですが、一つ聞きたいことがあります。カストロによる陰謀説を裏付けるような証拠か、決め手はあるのでしょうか」と私は聞いた。

アンダーソンは答えた。「ジョンソン大統領自身が認めているのです」
「認めている? まさか」
「本当です。ジョンソンは、ハワード・スミスというジャーナリストに真相を話したのです。ケネディがカストロを殺そうとしたら、カストロが先にケネディをやったのだ、と」

これは驚愕するような話だった。私の長年の記者経験から言って、現職のアメリカ大統領がジャーナリストに対して、ケネディ暗殺事件についてそのように明確な発言をしたのであれば、それはかなり信憑性が高い。しかも、それが一般に知られている事実と異なる場合であれば、なおさらだ。
(続く)

(メモ6=アンダーソンの記事)
 カストロがケネディ暗殺の背景にいたとするアンダーソンの最初の記事は、1967年に登場した。アンダーソンは、CIAのカストロ暗殺計画にかかわっていたジョニー・ロセッリというマフィアから情報を得て、オズワルドがCIAとマフィアの関係をばらす恐れがあるので、マフィアがジャック・ルビーを使ってオズワルドを殺した可能性があること、それにケネディ暗殺の背景にもこのカストロ暗殺計画にかかわったCIAやマフィアの影がちらついていることなどを記事にした。
 後にウォーターゲート事件で暗躍、逮捕された元FBIのゴードン・リディによると、CIAとマフィアの関係をあばいた一連のアンダーソンの記事の結果、CIAの信用が著しく損なわれたという理由で、リディと、CIA情報部員で同様にウォーターゲート事件で逮捕されたハワード・ハント、それにもう一人、ドクター・ガンとして知られるCIA工作員の間で、アンダーソンを暗殺すべきかどうか、協議したことがあったという。

(メモ7=ケネディの大統領選とマフィア)
 60年の大統領選は史上まれにみる激戦の末、ケネディが共和党候補ニクソンを僅少の差ながら破って当選した。しかし、この選挙の裏には、少なくとも2つの州で不正があったのではないかとみられている。
 一つはイリノイ州で、シカゴ・マフィアのボス、サム・ギアンカーナが“墓場から”ケネディに約1万票投票させた疑いが持たれている。つまり、本当ならありえない票がケネディに大量に流れ、同州でケネディが勝利したのだ。ギアンカーナはケネディと愛人を共有していたことでも知られているが、愛人に対し「俺がいなければ、やつ(ケネディ)は今、ホワイトハウスにいることもできなかった」とよく語っていた、という。
 もう一つは、問題のテキサス州で、ここではリンドン・ジョンソンが暗躍、独断的に10万票を無効にして、同州でのケネディの勝利をもぎ取った疑いが持たれている。
 この2州でのケネディの勝利の結果、ニクソンに行くはずだった51の大統領選挙人の票がケネディに流れた。もし、この51票がニクソンに流れていたのなら、ニクソンが僅差で大統領になっていたのだ。

(メモ8=ピッグス湾事件)
 大統領就任早々のケネディを待っていたのは、キューバ問題だった。
 キューバでは、1959年1月カストロの革命政府が成立し、ソ連寄りの路線を鮮明に打ち出していた。米国の目と鼻の先のカリブ海に共産主義国が誕生したことは、米国にとって国家安全保障上の脅威にほかならなかった。そこで、アイゼンハワー政権時代から国外退去していた反カストロのキューバ人の軍事訓練を密かに始め、カストロ政権転覆のための反カストロ分子によるキューバ侵攻を計画した。
 新大統領のケネディは61年4月、この計画にゴーサインを出す。まず16日にニカラグアを飛び立ったB-26爆撃機がキューバの空軍を攻撃。17日には、1500人の反カストロ分子がピッグス湾からキューバ上陸を始めたが、ソ連の過剰な反応をおそれたケネディは二度目の援護爆撃を中止。このためピッグス湾の亡命キューバ人の部隊は孤立、多くはカストロの部隊に殺されたり、捕らえられたりし、計画は大失敗に終わった。

誰がケネディを殺したか6

▼気になる言葉
 私はアンダーソンに再び聞いた。「ジョンソンは本当に、そんなことをハワード・スミスに話したのですか」
アンダーソンは言った。「そうです。疑うのならば、スミス本人に聞いてみればいい。まだ生きているはずだ」

その日のアンダーソンとのインタビューはこの後、ビル・クリントン大統領(当時)の下半身スキャンダル問題にまで及んだが、ここでは割愛させてもらう。私はアンダーソンに取材に応じてくれたことを感謝して、ワシントンDC市内の自宅に戻った。

自宅でアンダーソンとのインタビュー内容をメモにしているときに、アンダーソンの言葉が再び耳に響いた。「疑うならスミス本人に聞いてみればいい」

面白い。本人に聞いてみようではないか。私は作業を中断し、ハワード・スミスを探すことにした。まず、ABC放送局に電話した。応対に出た広報担当はもうすでに会社を辞めた人なので住所はわからないと言う。ただ、かつては、メリーランド州のベセスダに住んでいたということは教えてくれた。

ベセスダならそんなに遠くない。だが、ベセスダといっても広い。電話会社の番号案内に問い合わせたが、ハワード・K・スミスでの登録はなかった。住所もわからずにスミスを探し出せるだろうか。有名人だから誰か知っている人がいるかもしれない。私は翌日、車でとりあえずベセスダに向かった。
(続く)

誰がケネディを殺したか7
 
▼探索
 予想したとおり、ベセスダは大きな町(首都ワシントンのベッドタウンとして発展した)で、人々でごった返していた。この地域で一人の人間を探し出すことは、大海に落とした釣り針を探すようなものなのだろうか。

私は地図で、有名人が住んでいそうな住宅地を見つけ、事前に印を付けておいた。その場所についてから、周辺の聞き込みをすれば、手がかりが得られると思ったのだ。

ところが通行人の何人かに聞いても、だれもわからない。そもそもハワード・K・スミスの名前を知らない人がほとんどであった。そういうときはどうするか。

おそらく新聞記者の一年生なら誰でも知っていることだ。道は消防署に聞け。彼らは、大通りから路地裏まであらゆる道を知っているエキスパートだ。スミスの居所などわけなく教えてくれるはずだ。

案の定、消防署の人は、難なく教えてくれた。車でスミスの自宅前に乗り付けると、大きな正門があり、奥の邸宅へと道が続いていた。邸宅の前は小さなロータリーになっている。一瞬、敷地内に入ることに躊躇したが、門は開いているし、門に呼び鈴もない。恐る恐るではあるが、中に入り、邸宅の呼び鈴を押した。見ず知らずの人間がいきなり押しかけて、取材に応じてくれるだろうか。マイケル・ムーア張りのアポなし突撃取材である。

10秒、20秒と時間が過ぎていくが、応答がない。また、呼び鈴を押す。やはり、応答はなかった。

その日、スミスは留守であった。だが、住所はわかった。これで十分だ。自宅に戻った私は、スミスに手紙を書いた。
(続く)

誰がケネディを殺したか8

▼手紙
 ハワード・K・スミス本人から手紙が届いたのは、それから三日ほど後のことであった。手紙といっても、連絡先として書いたファックス番号に一枚の紙が送られてきた。ちゃんと、スミスのサインもしてあった。私の手紙をちゃんと読んでくれたわけだ。スミスの返信には次のように書かれていた。

―――――――――
布施泰和(注:これは筆者の実名ですね)殿

 同様にこちらからもこんにちは。あなたの質問にお答えしましょう。1967年3月31日、私はホワイトハウスの大統領執務室の隣にある小さな個室でリンドン・ジョンソン大統領と向き合って座っていました。それは3時間にわたる私的な会話だったのです。会話というよりも、大統領があらゆることに関して一方的に発言したと言った方がいいかもしれません。もちろん時々私も質問したため、一連の発言は途中、遮られることもありました。

 前任者のケネディの話をしていたある時点で、大統領は私に「これを聞いたら君は驚くぞ」と言ったのです。少し間を置いてから「ケネディはカストロを殺そうとしたが、カストロが先にケネディをやったのだ」というようなことを言ったのです。(もちろん大統領が話している間、私はメモをとりませんでしたから、一言一句同じではありません。しかし、私はその懇談が終わり自由になるやいなやタイプライターに向かい、思い出せる限りのことを書きとめました。)その発言には確かにびっくりしました。しかし、しばらくして、大統領にケネディ暗殺についてもう一度話してくれないか、と頼むと、今度は一転して、私を制して、「あれらのことは話したくない」というようなことを言ったのです。

 そういうわけで、ジョンソンの発言は公のインタビューではなかったのです。その後私が何度も同様に大統領と持った懇談の、その最初の懇談でのことでした。私はジョンソンの発言をどう解釈していいか今でも分かりません。そのことは私の番組の中でも後に何度か言及しました。ジョンソンはかつて、ケネディ暗殺は陰謀ではなく、気違いによる単独犯行だと決めつけたウォレン委員会の結論にお墨付きを与えておきながら、今度は私に、キューバ人による陰謀が存在したと信じていると言ったのです。彼はこうした衝撃的なことを会話に挟むことで、彼が話していることに私が全注意を傾けていることを確認したかったのでしょうか。私は今でも困惑したままです。

 これであなたの質問に答えられたとおもいますが。
敬具。
ハワード・K・スミス

――――――――――
スミスはその後、2002年2月に亡くなった。享年87歳であった。ジャーナリズムの一時代を築いた“第二次世界大戦を取材した伝説の特派員”であったとCNNは伝えている。
(続く)

誰がケネディを殺したか9

▼突破口
これでジョンソン大統領がスミスにカストロ陰謀説を吐露したことが確認された。大きな収穫であった。複雑怪奇な謎を解く場合、何かよりどころとなる事実が一片でも確認できれば、そこを突破口に謎を解明できる場合があるからだ。

ジョンソンはカストロがケネディを殺したのだと述べた――これがケネディ暗殺の謎を解く決定的な鍵となるのだ。なぜジョンソンは、カストロが犯人であるなどと発言したのか。ジョンソンはウソをついたのだろうか。

ウソである可能性は、まず考えられない。ジョンソンとスミスとの懇談があったときは、ケネディ暗殺から既に3年以上が経ち、オズワルドを殺したジャック・ルビーもその年の1月に獄中で“病死”している。死人に口無しで、ケネディ暗殺の真相も闇の中に消えようとしていた。そこでジョンソンがカストロ暗殺説を自分から披露した意味は大きい。わざわざスミスにウソをついてまで寝た子を起こす必要は全くなかったからだ。

さらに、自分がお墨付きを与えたウォレン委員会の報告が間違っていたと発言することは、政治的にも自分で自分の首を絞めることにつながる。自分の政治生命を絶たれかねない話をわざわざでっち上げるはずはない。むしろ、状況から言って、ジョンソンは、カストロが事件の背後にいるとの情報をつかんでいた、あるいはそう信じていた。そして3年経った今、つい、口を滑らせてしまった、と見る方がはるかに自然だ。

 ここで三つの可能性が考えられる。一つは本当にカストロがケネディに反感を抱くマフィアなどを使ってケネディを暗殺したという可能性。二つ目は、ケネディ暗殺計画のことを薄々気付いていたカストロは、間接的に反ケネディによる暗殺の動きを支援したという可能性。そして、三つ目は、ジョンソンはカストロがやったと信じていたが、実は、ジョンソンは間違った情報を持っていたという可能性だ。
(続く)

誰がケネディを殺したか10
▼根拠
 ジョンソン発言の三つの可能性に関する議論を進める前に、そもそもカストロにケネディを殺す動機があったのかどうかについて述べてみたい。ジョンソン発言によると、ケネディが先にカストロを殺そうとしたので、カストロがケネディを殺したことになっている。

おそらく、そのカストロ陰謀説の第一の根拠になっているのが、ケネディ暗殺の約2ヶ月前の1963年9月7日に、カストロ自身がブラジル大使館で語った発言内容だ。その中でカストロは、米国が自分を殺そうとしていることを知っていると警告した上で、それに対して報復があり得ることを示唆している(メモ12参照)。

このブラジル大使館での発言趣旨について、後にカストロ自身が1978年4月3日、ケネディ暗殺を調査していた米下院議員調査団に対し次のように答えている。

 カストロ「・・・(前略)そこであるジャーナリストが私にたずねた。私は、何と答えたかは正確には覚えていないが、その時(63年9月)の意図は、我々が我々の生命を脅かすような謀略の存在を知っていることを米政府に警告することだった。そこで私は、そのような謀略は非常に悪い前例となるだろうと言ったのだ。とても重大な前例――。つまり、そうした謀略を計画した作者に対し、(謀略が)ブーメランのように返ってくるだろうと言ったのだ。しかし、間違ってもらっては困るが、私は別に脅していたわけではない。全くそういう意図はなく、むしろ、我々は(米政府が)何をやっているか、知っているぞ、という警告のようなものだった。もし、他の国の指導者を暗殺するような謀略を前例にしてしまったら、非常にまずい、マイナスの前例となるだろう、という警告だ。もし、現在(78年4月)私が、当時と同じような状況に置かれたら、間違いなく63年9月のブラジル大使館での発言と同じことを言うだろう。だから、脅しではないし、同様な謀略による報復を意味したのでもなかった。当時は3年もの間、我々は、そういう謀略があることを知っていた。そんなことは日常茶飯事のことだった。だから当時の会話は何気ないものだったのだ。・・・(略)」

 カストロはこのインタビューの中では、ケネディ暗殺関与を全面的に否定している。それはそうであろう。仮に関与していても、そんなことを認めれば、米国や国際社会からどのような非難や報復があるか分からない。それをみすみす許すはずがない。

ただ、面白いことにカストロは、暗殺計画は、その謀略を仕掛けた本人に対してブーメランのように戻り、同様な報いをもたらすと警告したことを認めている。CIAによるカストロ暗殺計画も、事実であったことが確認されている。CIAやウォレン委員会は当然、このことを知っていたとみられるが、ウォレン報告書は、そんなことに触れていない。ここには、明白な作為性が認められる。
(続く)

(メモ12=ブラジル大使館でのカストロ発言)
 1963年9月7日、ハバナのブラジル大使館の歓迎会に現れたカストロにAPの記者が即興でインタビューした時の発言で、その時の記事の内容(要旨)は次の通り。
 ハバナ発(AP):フィデル・カストロ首相は土曜の夜「米国の首脳たちが、もしキューバの首脳たちを亡き者にする企みを援助するなら、彼らこそが身の危険にさらされるだろう」と語った。
 カストロ首相は、最近キューバ領土内で米国により企てられた“侵略”を激しく非難した上で「我々は侵略者と戦い、同様な反撃をする用意ができている。米国の首脳たちは、キューバの首脳たちを暗殺するテロリストの計画を支援するのならば、自分たちが今度は安全ではなくなるということを考えるべきだ」と述べた。
 さらに首相は「国際問題の環境は・・・少し前はもっと穏やかな時代に入ったと思われた。ところが、今この傾向は侵略攻撃とともに変わってしまった」
 「米国はいつも交渉し、約束をする用意があるようだが、その約束は後に尊重された試しがない。10月危機(前年10月のキューバ危機のこと)で交わされた約束も守られていない。現に新しい侵略攻撃に見られるように、約束は破られている」
 「しかし、私はこれが非常に危険な状況をつくり出すと警告しておく。10月危機よりも悪い状況をつくり出すだろう・・・」などと話した。


誰がケネディを殺したか11
▼三つの可能性1
カストロには、ケネディに報復するという動機が確かにあったようだ。それを踏まえながら、ジョンソン発言の真意について、三つの可能性を論じていきたい。

まず、カストロがマフィアらを雇ってケネディを殺したという第一番目の可能性について考えてみよう。この場合、カストロはオズワルドを雇ってケネディ暗殺を企んだか、寝返ったマフィアを利用してケネディ暗殺を企てたことになる。

 この説だと、何故、ウォレン委員会がオズワルド単独犯行説に固執したかがよく説明できる。もしカストロが絡んでいると発表しようものなら、第三次世界大戦にも発展しかねなかったからだ。

 問題は、カストロが、米国のキューバへの武力報復や世界大戦勃発の危険を犯してまで、ケネディを暗殺する利点があったかだ。

 1978年4月3日の米議員団によるインタビューでカストロ自身が語った言葉を借りれば、「(ケネディ)大統領を暗殺するなどという考えは実に馬鹿げている。狂気の沙汰だ。・・・(中略)・・・もし、ニクソンがピッグス湾事件のときに大統領だったら、間違いなく米国の軍隊はキューバに上陸していただろう。我々は、ケネディだったからこそ、何百万人もの死者がでたかもしれないような侵略を思いとどまったのだと確信している。・・・(中略)・・・それに我々は常に、米国にキューバ侵略の口実を与えないよう細心の注意を払ってきた。もし、米国の大統領を暗殺などしたら、それこそキューバ侵略の口実を与えるようなものだ。そんなことを一体誰が考えるというのか」ということになる。

 確かに62年10月のミサイル危機後は、カストロとケネディの関係には好転の兆しが見られた。カストロとしては、民主党でもタカ派のリンドン・ジョンソンが大統領になるより、ケネディが大統領でいた方が利点は大きかったに違いない。

 さらに言えば、仮にオズワルドが犯人だとしても、カストロがオズワルドを雇ったとする見方は疑問だ。キューバに一度も来たことがない男が、いきなりカストロに雇われたりするだろうか。しかも、暗殺1ヶ月前の10月にメキシコのキューバ領事館に来て、ビザを申請。却下されると米国に戻り11月にケネディを暗殺するというのは、カストロの陰謀としては、あまりにも情けない筋書きだ。

 カストロが、オズワルドではなく、自分の諜報部員か、マフィアなどプロの殺し屋を使った場合はどうだろうか。カストロの諜報部員がケネディ暗殺に成功したとすれば、カストロは武器の調達から計画遂行、逃走経路確保まで米国にかなり強力な地下組織を持っていたことになるが、むしろ当時の米国、特に南部は、反カストロのキューバ人グループが群雄割拠しており、カストロ支援のムードはなかった(メモ14参照)。孤立無援状態のカストロの刺客が、万人監視の中でオズワルドを犯人に仕立てながら、あのような鮮やかな暗殺を実行できたとは思えない。また、直接マフィアを雇うというやり方は、第二の可能性のシナリオで説明するが、無理がある。
(続く)

(メモ14=米国のカストロ支持グループ)
 この当時、カストロ支援のグループとして登場するのは、オズワルドが1963年8月にニューオーリンズでカストロ支持のビラを配っていたことで有名になったフェア・プレー・フォー・キューバ委員会ぐらいだ。オズワルドはここで反カストロのキューバ人とけんかになり逮捕される。ただ、同委員会は、ニューオーリンズには支部を持たず、オズワルドがかってにニューオーリンズ支部をつくったらしい。しかし、その支部の所在地が反カストロ活動の本拠地であったことから、オズワルドとカストロを結びつけるためのやらせだったとの見方が強い。

誰がケネディを殺したか12
▼三つの可能性2
 第二の可能性は、カストロがマフィアなど反ケネディの動きを裏から支援した場合だ。マフィアはオズワルドを利用した。支援の仕方としては、暗殺の見返りに、マフィアの利権の一部を認めるなどの便宜供与が考えられる。マフィアを完全に口止めできれば、米国によるキューバへの報復という最悪の事態を回避する可能性が高くなる。カストロがケネディ暗殺前に「ブーメラン」のように仕掛けた本人に戻ってくる、と言ったことも説明できる。

 このシナリオでは、カストロは可能な限り、マフィアとの関係を否定することで、火の粉が降りかからないようにすればよい。ただ問題は、米軍によるキューバ侵略のリスクが減るといっても、マフィアが口を割らないとも限らないわけで、それほどマフィアとカストロの間に信頼関係があったとは思えない。

 そもそもマフィアは、カストロ政権が誕生したときに、当時キューバで経営していたカジノなど賭博場を没収されており、カストロに恨みをもっていた。カストロとマフィアは犬猿の仲であった。だからこそ、マフィアはCIAのカストロ暗殺計画に参画したのだ。カストロも、昨日まで自分を暗殺しようとしていたマフィアを信用するはずがない。事件後、カストロがマフィアに何らかの便宜供与をした形跡も全くない。

▼三つの可能性3
 第三の可能性は、CIAの中の反ケネディ派が仕組んだもので、カストロ陰謀説をマコーン長官やジョンソン大統領に信じ込ませたというものだ。この場合オズワルドは、単にカストロ関与を臭わせるためのめくらましに過ぎず、ピッグス湾事件など反カストロ工作に関与した亡命キューバ人の活動グループ(反カストロ分子)と、ケネディの対キューバ政策に不満を持つCIAの一部がグルになって、ケネディ暗殺を実行した。一見途方もない仮説に思えるが、実は、当時の状況を最もよく説明できるのが、このシナリオなのだ。
(続く)

誰がケネディを殺したか13
▼禍根
 第三の可能性として浮上したCIAの反ケネディ派の犯行説――。それが事実だとしたら、ジョンソン大統領にカストロが犯人だとする偽情報をつかませたのはなぜか。

すべてはピッグス湾事件から始まっている。1961年4月、CIAに強く催促されたケネディは、米国で訓練を受けた亡命キューバ人の活動家ら1400人の反カストロ部隊によるキューバ上陸作戦にゴーサインを出した。しかし、キューバでのカストロ支持の勢力が予想以上に強かったため、作戦部隊は孤立。同部隊は米政府に対し空、海軍による支援を要請したが、米国の直接関与が公になることを恐れたケネディ大統領はこれを拒否。多くは殺されたり、カストロ部隊に捕らえられたりし、作戦は大失敗した。

 怒ったのは、CIA内部の強硬派とケネディに裏切られたと感じた反カストロ分子だ。しかも、ケネディはこの作戦失敗後、CIAがキューバ国内でのカストロ支持勢力を過小評価したのが失敗の原因だとして、CIAの“粛清”に乗り出した。ケネディ自身の言葉を借りれば、「CIAを粉々に砕き、風の中にまき散らしてやる」というわけだ。ケネディは、アレン・ダレス長官、チャールズ・カベル副長官、リチャード・ビッセル計画局次長を相次いで解任、ケネディの息のかかったマコーンを長官に据えて、CIA内部に禍根を残した。
 そして、この禍根がCIAの強硬派を「大掛かりなウソ」へと駆り立てるのだ。
(続く)

お知らせ:話が複雑になってきましたので、明日はこれまでの論点をまとめます。

誰がケネディを殺したか14

▼まとめ1
 状況がかなり複雑になってきたようなので、ここでこれまでの議論をまとめてみたい。議論の論点は次のとおり。

ジョンソン大統領
・ケネディ暗殺の翌日、ケネディ派のCIA長官からカストロが暗殺の背後にいることを知らされたジョンソン新大統領は、カストロがケネディを暗殺したと信じた。
・ジョンソンは、カストロがケネディ暗殺にかかわっていたことが世間に知られるとキューバ危機の二の舞になるのではないかと恐れ、カストロ陰謀説を封印することにした。
・その結果、ジョンソンが設置したウォレン委員会の報告書は、オズワルドとカストロを結びつけるような証拠はすべて除外され、オズワルド単独犯行説となった。

CIA内部の反ケネディ派
・CIAは目の上のたんこぶであるキューバ政権を転覆させるため、ケネディが大統領に就任する前からカストロ暗殺計画やキューバ侵攻計画を進めていた。
・ピッグス湾事件でケネディに味噌をつけられた反ケネディ派は、キューバを再び侵攻する口実が何としても欲しかった。
・ところがケネディに報復され、幹部は粛清、替わりにケネディ派のマコーンが長官となった。
・CIA内部の反ケネディ派は、新長官のマコーンに内緒で、カストロ暗殺を含むキューバ政権転覆計画を進めていた。
・キューバ政権転覆に執着していたCIA内部の反ケネディ派は、ケネディ暗殺がキューバ侵攻に踏み切る好機であると判断。直ちに、CIAによるカストロ暗殺計画が進行中で、それを察知したカストロが報復した可能性が強いとマコーン長官に報告した。それを聞いて驚いたマコーンは、すぐにジョンソン新大統領にその事実を伝えた。

カストロ
・カストロは早くからCIAのカストロ暗殺計画に気づいていた。
・ミサイル危機後も約束に反してカストロ暗殺計画が続いたので、ケネディに対して警告の意味を込めて報復もありうると発言した。

ケネディ
・ピッグス湾事件で、CIAと反カストロ部隊から要請された空爆を実施しなかった。
・ピッグス湾事件の失敗は、CIAの情勢判断ミスのせいであると判断、CIAを解体し、新しい情報機関を創設することを決めた。そのため、長官ら首脳部を“粛清”、自分の息のかかったマコーンを新長官に据えた。
・ケネディの意に反して、CIAはカストロ暗殺計画を実行しようとしていた。

ジャック・アンダーソン
・マコーン長官がジョンソン大統領にカストロがやった可能性があると報告したことを、政府内部の情報源から知る。
・情報源のマフィアから、犯行にはマフィアがかかわっていたとの情報を得る。
・アンダーソンは、カストロがマフィアを利用してケネディを暗殺したと信じるようになる。

今後の議論展開
・CIAは本当に手を下したか。
・CIA内部の反ケネディ派は、組織防衛とキューバ政権転覆のためだけで、ケネディを殺したりするだろうか。もっと大きな国家安全保障上の理由があったのではないか。
(続く)

誰がケネディを殺したか15

▼公文書
CIAとしては組織維持や国家安全保障上、どうしてもカストロ政権を打倒しなければならない理由があった、そのためには手段を選ばなかったのではないか、との疑惑が浮上してくる。

 その一つの方法が、カストロをケネディ暗殺犯に仕立て上げ、世論を動かしてキューバ侵攻に踏み切らせることだったのではないだろうか。CIAの強硬派にとって、もはや一刻の猶予も許されない非常事態であった。ケネディはCIAを解体しようとしていたのだ。そしてCIAの強硬派にはもう一つ、どうしても譲れない国家安全保障上の問題が緊急課題として挙げられていた。それは前年にキューバから撤去されたことになっていた核爆弾搭載可能なミサイルが、まだキューバにあるという極秘情報であった。

私はなにも、推測だけで議論を展開しているのではない。公文書館に貴重な資料が埋もれているのだ。

私の公文書館通いは、ジャック・アンダーソンからケネディ暗殺の話を聞いた直後から始まった。

米国メリーランド州にある国立公文書館には、ケネディ暗殺事件に関連する秘密文書にあふれている。
 
 国立公文書館は暗殺から30年経った93年、80万ページを超える非公開だった政府文書を公開したが、本当に極秘の文書は、廃棄されたか、依然公開されていないかで、決定的な証拠を見つけることはできない。それでも公開されている文書から、ケネディ暗殺の背景にマフィアやCIAが暗躍していたことや、政府が何を隠したがっていたかを知ることはできる。

 たとえば、暗殺後の64年6月17日付けで、フーバーFBI長官がウォレン委員会の筆頭法律顧問、リー・ランキン(メモ13参照)に当てた文書は当時、トップ・シークレット扱いにされていた。この文書は、カストロがケネディ暗殺後にどのような発言をしたかを報告したものだ。その中でカストロは、オズワルドを名乗る男がケネディ暗殺前にメキシコのキューバ大使館に来て「ケネディを殺してやる」とわめいていたことを明かしたり、ケネディ暗殺にはどう考えても3人は必要だったはずで、米国政府は何故オズワルド以外の犯人を捜さないのか、と勘ぐったりしている。

このことから、何者がオズワルドとカストロを結び付けようとしており、カストロはそれに気がついていたことがうかがえる。

もっと重要な、決定的な証拠はないだろうか。私は公文書館の資料をあさった。その中で目に留まったのが、元下院議員トマス・ダウニングのリポートであった。
(続く)

(メモ13=リー・ランキンへの文書)
 ランキンは、ウォレン委員会の筆頭法律顧問。ランキンのウォレン委員会の中での役割に疑いを持っている研究家は多い。つまり、意図的に、オズワルドの単独犯行という結論になるよう委員会を誘導したのではないかという疑いだ。たとえば、ランキンは、死因を決定づけるようなケネディの検死解剖の写真の一部をウォレン委員会のメンバーに見せなかったり、オズワルドが撃ったとされる銃弾の一発がケネディの背中に当たり喉を通って貫通した上でテキサス州知事ジョン・コナリーの右腕を貫通、角度を変えてコナリーの左太股に当たったとするシングル・ブレット(一発の銃弾)説を支持、早々に捜査を切り上げさせたりした疑いが持たれている。もし、そうだとしたら、フーバーもしくは、ジョンソンの意向を受けて、単独犯行説に都合の悪い資料は委員会に知らせなかった、ということも推察される。ちなみにフーバーからランキンに宛てられた文書の内容要旨は次の通り。
「ランキン殿
 信頼できる筋が、ケネディ大統領暗殺に関するカストロの発言を伝えてきた。それによると、カストロは、メキシコでのオズワルドの言動について次のように言った。オズワルドはビザを申請に来たが、断られると「ケネディを殺してやる」と話していた。さらにカストロは「米政府は何故、他の殺し屋を捕まえないんだ。ケネディを殺すのに3人は必要だったはずだ」とも語った。
 その信頼できる筋は、暗殺に3人は必要だったというカストロの推測は、カストロが実際に人を使って同様な条件下で同様なライフルを使って実験したらしいと報告しています。・・・(後略)・・・」

誰がケネディを殺したか16

▼再調査
トマス・ダウニングの報告書の内容に触れる前に、この報告書が作成された経緯を説明しよう。
 ケネディ暗殺から10年以上が経ったにもかかわらず、真相が一向に解明されていていないのではないかと考えた米下院議員のダウニングは75年4月、ケネディ暗殺を再調査する特別委員会を下院に設立するよう呼び掛けた決議案を提案した。それを機会にダウニングの下に多くの情報が寄せられた。その中で、元CIA工作員、ロバート・マローの「裏切り」という著作があった。

その著作の中でマローは、自分がCIAの工作員として反カストロ分子によるカストロ政権転覆計画に携わっていたとした上で、ケネディ暗殺事件には、この反カストロ分子とCIAが関与していると結論づけている。ダウニングは早速、マローから事情を聴くなどして独自の報告書を作成、76年8月にマローの解説付きで記者発表した。こうした疑問提起の動きが奏功して、下院は同年9月、ケネディとキングの暗殺を調査する特別委員会設置を決定、初代委員長にダウニング自身が就任した。

 76年7月に書かれた「ケネディ暗殺の背景にある動機」と題する13ページにわたるダウニングの調査報告書は、ピッグス湾事件の1年前に、CIA、反カストロ分子、ニクソン副大統領(当時)の3者で合意した密約にまで遡って分析している。その密約こそ、ケネディ暗殺につながる決定的な内容を含んでいたのだ。
(続く)


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